白虎隊自刃の日(8月23日)

8月23日は「白虎隊自刃の日」として、戊辰戦争の会津戦争で起きた白虎隊士中二番隊の悲劇を振り返る日です。慶応4年8月23日、戸ノ口原での戦いから退いた少年隊士たちが会津若松の飯盛山にたどり着き、自刃しました。なお、この8月23日は旧暦の日付で、現在の暦では1868年10月8日にあたります。
由来
白虎隊は、戊辰戦争が始まった1868年に会津藩が軍制を再編する中で組織した部隊です。年齢別に編成された会津藩の部隊のうち、白虎隊は主に16歳から17歳ほどの少年たちによって構成されていました。
慶応4年8月23日、白虎隊の士中二番隊は会津若松城の東側に位置する戸ノ口原方面で新政府軍と戦いました。しかし戦況は厳しく、隊士たちは退却を余儀なくされます。
その後、一部の隊士たちは戸ノ口堰の洞門などを通って飯盛山へとたどり着きました。喜多方市の資料でも、飯沼貞吉を含む士中二番隊20名が旧暦8月23日に飯盛山で自刃するに至ったことが紹介されています。
飯盛山にたどり着いた20人
飯盛山にたどり着いた士中二番隊の少年たちは20人でした。一般には、このうち19人が亡くなり、飯沼貞吉がただ一人生き残った人物として知られています。
飯沼貞吉も自刃を試みましたが一命を取り留め、その後は明治政府のもとで電信技術者として活動しました。飯盛山には現在、亡くなった十九士の墓とともに飯沼貞吉に関わる墓碑もあり、白虎隊の歴史を伝える重要な場所となっています。
「鶴ヶ城が落城したと思った」という伝承
白虎隊の物語では、飯盛山から会津若松城方面を見た少年たちが、城下から立ち上る煙を見て「鶴ヶ城が落城した」と判断し、自刃を決意したという説明が広く知られています。
一方で、自刃に至る細かな状況や隊士たちの判断については、後世に伝えられた証言や史料によって記述に違いがあります。そのため、「城が燃えていると完全に誤認したことだけが自刃の理由だった」と単純化せず、戸ノ口原での敗走や部隊からの離脱、城下の戦況などが重なった出来事として捉える必要があります。
白虎隊十九士の墓
飯盛山には、白虎隊士中二番隊の十九士の墓が並んでいます。さらに、会津各地で戦死した白虎隊士31人をはじめ、戊辰戦争で亡くなった少年武士らも祀られており、会津戦争を伝える慰霊の地として現在まで大切に守られています。
公益財団法人会津弔霊義会は、飯盛山にある白虎隊戦死者の墳墓や関連する建造物の維持・保存を行い、歴史を後世へ伝える活動を続けています。
現在も続く白虎隊墓前祭
飯盛山では現在も、白虎隊士を慰霊する「白虎隊墓前祭」が行われています。毎年4月24日と9月24日の春秋2回、白虎隊士の墓前で慰霊の祭典が営まれ、福島県立会津高等学校の生徒による「白虎隊剣舞」も奉納されています。
この剣舞奉納は1884年(明治17年)の白虎隊士十七回忌に、私黌日新館の生徒によって初めて奉納されたとされ、その後、旧制会津中学校から現在の会津高等学校へと受け継がれてきました。
豆知識
- 「8月23日」は旧暦の日付で、現在のグレゴリオ暦では1868年10月8日にあたります。
- 飯盛山にたどり着いた士中二番隊の一団は20人で、飯沼貞吉が生存したため、現在は「白虎隊十九士」として墓が祀られています。
- 白虎隊そのものは飯盛山にたどり着いた20人だけを指す名称ではなく、会津藩が編成した少年部隊全体の名称です。
- 飯盛山では毎年4月24日と9月24日に白虎隊墓前祭が行われ、現在も慰霊と歴史継承が続けられています。
出典
白虎隊士中二番隊20名が旧暦8月23日に飯盛山で自刃したことや、飯沼貞吉が救助され一命を取り留めたことは、喜多方市の資料などで確認できます。また、飯盛山での白虎隊墓前祭や十九士を含む慰霊については、会津若松観光ビューロー、公益財団法人会津弔霊義会、会津若松市の資料で確認できます。